「健康寿命延伸都市」を支える松本ヘルスバレー構想

第2章

市民の健康づくりを事業化する
行政のアクロバット施策

インタビューに応えていただいた、松本市商工観光部の小林氏と丸山氏


インタビューに応えていただいた、松本市商工観光部の小林氏と丸山氏


市民の健康を産業面から支える「松本ヘルスバレー構想」

まず、松本ヘルスバレーの主たる目的は、「市民が健康づくりを実践し、日々健康に暮らすこと」にある。市民が健康な生活を送るようになると、そこには必ず経済的な内需も発生する。そしてその内需こそは(他の経済活動と比較して)地域経済を経由しやすい性質を持っている。松本市が注目したのはこの点だった。

まず健康産業市場における内需、つまり市民が購入し利用するヘルスケア商品やサービスに対し行政が積極的に関わり、独自で良質な財やサービスを作り上げる。そしてその恩恵を「予防医療」という形で市民に還元し価値を循環させる。つまりは、行政が自発的にヘルスケア事業を興すという考え方である。

また、事業であるからには経済的価値の創出が見込まれる。その利益をまた次の事業活動に還元する。これにより、市民の予防医療活動が促進され、医療・介護費の減少に寄与する。
この図式こそが「松本ヘルスバレー構想」のアウトラインであり、「暮らせば健康になる街」というコンセプトの裏付けである。

ここで注目したいのが、「行政が事業を興す」という試みである。行政と民間が協働する事例は多く存在するが、行政が住民サービスを提供しつつ同時に経済的価値を追求するという事例は少ないと言える。果たして、そんなことが可能性なのかどうか、ここからはその活動の全貌を掘り下げたい。


CSRに留まらない、その一歩先へ

行政と企業が協働する代表的な形のひとつとして挙げられるのが「CSR」(=corporate social responsibility : 企業の社会的責任)活動である。
これは、企業が倫理的観点から事業活動を通じて、自主的(ボランタリー)に社会に貢献するための責任、もしくはそのための具体的な行動を表す、この時行政のスタンスとしては、あくまで企業の意思に対して受動的に立ち振る舞うのが一般的である。

つまり、企業が社会的貢献を希望すれば、行政としていくらでも受け皿にはなるが、一方で、仮に企業の経営形態が悪くなればいつでもやめていただいて結構。行政側は決して押しつけはしないという立場に留まりがちだということだ。結局のところ、企業は行政にとってのスポンサーという範疇から逸脱することがなく、パートナーシップと呼ぶに値する関係までには至れない。それが現実である。

もちろん行政が企業に対し圧力をかけることなどあってはならず、あくまで企業の自主性を大前提とすることは当然だ。しかし見方を変えれば、このような前提をありきにしている限りは、行政側から企業への積極的な働きかけや有機的な関係づくりは不可能でもあろう。

松本ヘルスバレー構想は、企業と行政の関係性をCSRの範囲に留めるのではなく、そこから一歩進んで、CSV(= Creating Shared Value : 経済的価値と社会的価値を同時実現する共通価値の戦略)を追求するものと言える。

非常に難しい挑戦にも映るが、一歩立ち返って考えてみればこうした発想にたどり着くのも理解出来る。今後、地方自治体は更に進行する人口減少に比例して直接税収も減る。一方で管轄する広大な市域面積は変わらないため、住民一人に対して提供する福祉サービスの単価は向上していく。日本の平均的都市である松本市も、この問題の渦中に位置している。市の近未来を真剣に思案すれば、これまでの市政とは一線を画すブレイクスルー(突破口)的な施策が不可欠なはずだ。

そのために松本市が最初に着目したのが「健康づくり」であり、そこを突き詰めて「予防」という概念に至り、更には医療費、介護費の適正化、そしてコミュニティ作りへと繋がっていく。


予防医療の定着が国と自治体の財政を救う

ここではまず、医療保険や介護保険などの保険制度内において、市が提供する行政サービスにいかほどのコストを要しているのか整理してみる。

松本市の事例を通じて地方財政の実態を見てみたい。人口24万人規模の松本市の一般会計は、約900億円で構成される。そのうち税収は350億円であるが、一方で支出の中で社会保障費が占める額も約350億円に上る。つまり、市単独の税収では社会保障費を賄うのが精一杯という実情である。

一方で、保険制度を源泉とした医療・介護に着目すると、1,000億円を超えるお金が医療機関や製薬会社などを通じて動いているのだが、ここで注目すべきは、このお金は高い割合で地域内を循環しているという事実だ。つまり、医療や介護のサービスは、比較的内需で賄われる傾向があるのだ。
これは地域経済にとってメリットであるし、このジャンルの内需が拡大されれば地域経済の活性化に直結する。

とはいえ、今後、更に高齢化が進めば、源泉であるはずの保険制度そのものの維持が難しくなり、お金の循環自体が期待できなくなることが危惧される。ならば、お金が流れる理由を、保険が源泉になる医療や介護に対する対価ではなく、予防やヘルスケア需要へとシフトしていく必要がある。つまり、治療から予防へ、市民の意識と行動を改革することが重要になる。

松本市では既にこのための取り組みが進んでいる。「ロコモ予防」、「健康住宅」、「配食サービス」などの分野においては民間企業の参入がなされている。また今後は、これ以外にも官民連携の幅を広げ、例えば「買い物援助」や「パーソナルモビリティ」、そして「栄養指導」や「運動指導」、更には「サービス付き高齢者住宅」の分野においてもマーケットの整備を推進していく。更に、ヘルスケア産業の中には、我々がまだ気づいていない画期的なビジネスのアイデアが民間企業に潜んでいるはずだ。
このアイデアをカタチに商品やサービスとしてローンチすることが、松本ヘルスバレー構想の独自性であり肝になる。

行政の具体的な使命は二つあると、松本市の担当者は言う。

まず一つ目は、出てきたアイデアに対する「需要の見える化」である。その商品に本当に市場ニーズがあるか、『調査する場』を提供する。

そして二つ目は、仮に需要が見えた場合の「商品を試す場の提供」である。テスト商品を作り、それが本当に効果効能を有しているか『実証する場』を提供する。


松本ヘルスバレー構想の骨子

次に、構想のベースとなる5つの柱について説明しよう。

1つ目の柱であり構想の中心に据えられるのが、『松本地域健康産業推進協議会』である。
これはヘルスバレー構想のプラットフォームとも言うべき組織であり、官民連携の場として機能する。会長は松本市長が務める。企業にとっては、まずはこの輪の中に入っていくことがヘルスバレー構想に関わるための第一歩となる。現在342(2018年12月現在)の企業が参画しているが、協議会のメンバーになると協議会事務局にヘルスケアビジネスの提案を行うことができる。この提案は社会的な課題を解決することを目的としていることが前提となる。仮に、企業からの提案があれば、分科会を設置して協議し、実施可能だと判断できた案に対しては100万円を補助上限とした実証・助成事業(ベンチャー事業)として対応を行い、新しいヘルスケア産業の育成を目指す。

2つ目の柱は『松本ヘルス・ラボ』である。協議会の参画企業から出るアイデアが市民参加型の施策や、モニタが必要な場合に、これを請け負う母体となる。ここに参加している市民は、3,000円 の年会費を払っているのだが、彼らは自分たちの健康づくりをきちんと継続させていきたいという意思を持った人たちであり、彼らにとって年会費というのは、いわば健康のための投資と位置付けることができる。

3つ目の柱は『世界健康首都会議』。これは情報戦略のための重要なツールと位置付けられる。直近では、2018年11月に開催された。

4つ目の柱は、働く現役世代のための『健康経営にコミットするための活動』である。そして5つ目の柱が、将来構想ではあるが『松本版PHR』ともいうべき考え方である。松本市で生まれた幼児が松本市で暮らし、そして年老いて亡くなるまで、母子手帳から始まるあらゆる健康に関するデータを、市が管理し蓄積していく。このデータはもちろん市民が自身の日々の健康管理を行うために活用されるのだが、晩年は地域包括ケアによって「自身を守ってもらうためのデータ」として活用される。つまり「自己完結するため」のデータから「他者からサポートを受ける」のためのデータへ、用途がシフトしていくのだ。

ただしこの『松本版PHR』はまだ途上段階であり、先の長い取り組みとである。現状ではこれを具現化するための社会インフラが存在せず、松本市が独自のそのプロジェクトを立ち上げることもコスト的に難しいからだ。市としては、今後も研究活動を継続していく予定だと言う。ヘルスバレー構想の5つの柱の中の一本を占めることからも気概が窺える。仮に近い将来、厚生労働省や総務省などを中心に国がこれを推進した場合、自治体にも参加の応募が起こりうる。その際、松本市としては他の自治体に先駆けていち早く挙手できるような準備を整えていく予定だ。

これら、ヘルスバレーの基盤作りは、平成20年の6月に市長がコミットして以来、順次進めてきて、平成23年の松本地域健康産業推進協議会の発足や平成28年の一般財団法人松本ヘルス・ラボの設立を経て基盤が整備されつつある。現在は基盤の上へ実装すべきソフトを、企画立案していく段階にある。

松本ヘルスバレー構想 5つの柱の関係性

 


実証事業の事例 : 「スポーツボイス大学院」(第一興商・信州大学)

昨今の社会現象として顕在化しつつある課題のひとつとして「定年退職後男性の閉じこもり」がある。
長年、企業人として精勤した彼らだが、定年を迎えた途端に時間的にも精神的もぽっかりと空洞ができてしまい、何もしなくなる。いや、「何をしてよいのかわからなくなってしまう」という言い方の方が正しいのかもしれない。その結果として自宅から出ず、外部との接触を遮断したまま生活しているシニア世代の男性が増加しているわけだが、これは行政にとって健康文化の醸成を阻害する悩ましい問題と言える。

一方、実証事業を行った株式会社第一興商(以下、第一興商)といえば、業務用通信カラオケ機器やカラオケボックス経営における、言わずと知れた業界のトップランナー企業であるが、その第一興商にとって既に迎えている我が国の人口減少は大きな懸念材料である。なぜなら、カラオケマーケットのボリュームゾーンは「若い世代」による「夜間帯」の利用によって支えられているからだ。
そこで発想の転換である。今後は「昼間の需要」を追求していくことがひとつの方針とする。そうすると見えてくるが「シニアの需要」である。

このように行政と企業、立場は違うこの両者が、それぞれの有する課題を同時に解決するためにコラボレーションし、その結果として誕生したのが「スポーツボイス大学院」である。

スポーツボイス大学院

その内容であるが、定年退職後の男性をターゲットにして、ボイストレーニングとエクササイズを組み合わせた1時間 / 週の健康講座3カ月実施するというプログラムである(現在は女性も参加可能)。

元々第一興商では、シニアマーケット向けの健康体操のプログラムを有していたが、松本市と組むことにより、この体操プログラムが「スポーツボイス」という新しいプログラムに発展した。

しかしながら、これまで閉じこもっていたシニアに対し、「介護予防体操」、「健康講座」などと訴えても、そんな簡単には参加してくれない。もっと強い「動機」が必要となる。

そこで、エンターテインメント会社が培ってきたコミュニケーション力の出番である。「オトナの声を取り戻せる」、「奥さんたちを見返そう」、「カッコいい親父で居続けてほしい」など、まだ現役であることを意識させると同時に、ちょっとした刺激をも与えるようなメッセージやコンセプトで参加を促していく。こういう場面においても民間企業と連携する効能がある。

プログラムは、週に1回・1時間のボイストレーニングおよびエクササイズを3か月続け、最後に発表会を開催する運びとなる。

松本市としては、「スポーツボイス大学院」の開催する目的として、

  • 出不精になっていた定年退職後の男性を外出させること
  • 旦那が在宅していることによる主婦のストレスを回避。

を設定していたが、実際はこれ以外にも大きな効果を生んだ。それは、プログラム参加者である男性シニアが、プログラムの終了後も継続して地域コミュニティに関わってくれたことだ。

プログラムに参加した80名は、それまでほぼ地域活動に参加していなかった層だったが、その6割が3カ月のプログラム終了後も地域の活動を継続している。元々きっかけさえあれば外に出てこられる人たちであったのだ。これは、定年退職によって主体性を失っていた彼らが、プログラムをきっかけにして「受け身ではなく自分ごと」として活動するマインドを取り戻したと言える。

この他にも、プログラムをきっかけにして「夫婦間のコミュニケーションが活性化した」、「定年退職で停滞していた勤勉性が回復した」などという効果も報告されている。

また、健康面の効果についても報告があがっている。口腔機能において、咀嚼力が改善し、反復唾液嚥下回数の増加が認められ、介護予防へ期待できるという結果が出た。

この施策の成功は、機器の提供を行うだけではなくインストラクター(音楽健康指導士)の育成することに要因がある。第一興商は、企業として市に対し機器の販売を行う立場にあるが、インストラクターを育成し派遣する機能も担っている。そのため同社は、インストラクター認証のための社団法人を独自に設立している。

スポーツボイス大学院

松本市としては、施策開始(2016年)からの3年間はプログラムの定着と浸透を目的に、第一興商から機器、システム、そして指導ノウハウを購入することとした。しかし、インストラクターを企業からの派遣のみに委ねていては、行政がプログラムというカタチの「サービス」を提供し続けることになってしまう。行政が行うべきは、施策が持続するための担保となる「システム」を作り上げることだ。そこで、参加者の中からインストラクター候補を抽出し育成する体制、つまりシステムを作るべく、プログラムと並行してインストラクター育成のためのコミュニティ形成も行っている。

2018年度でシステムの維持とインストラクターの資格取得サポートを市が担った3年間が終了する。2019年度からは、「地区福祉ひろば」内に設置された18,000円(月額)のシステム使用料の一部については市が補助するものの、活動の主体は「地区福祉ひろば」に母体を移し、市民の中から生まれたインストラクターを中心に、維持・運営される。また、市役所内の管轄部署としては、商工観光部で生まれ育成された施策が、ビジネス化が実現した時点から健康福祉部に移ることとなる。

一方、第一興商としては、ここからはプログラム参加者である市民をカラオケシステムの利用者として位置づけることになる。また、地区福祉ひろばに設置されたカラオケシステムは、プルグラム以外の時も利用可能である。結果として昼間におけるカラオケの利用促進が果たされることになる。

なお、同施策はその後、大阪府の泉佐野市にも横展開している。

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